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誕生院を知っていますか?

郷土の偉人・覚鑁上人の物語


鹿島市行成に誕生院(たんじょういん)というお寺があるのは、知っている方も多いと思いますが、創建の由来はご存じでしょうか?


 誕生院は平安時代後期の僧で、真言宗中興の祖と言われる覚鑁上人(かくばんしょうにん)の生誕地です。覚鑁上人は13歳で京都に上って真言宗を学び、空海以来の天才と称されました。真言密教の教義を体系化し、新義真言宗の始祖となるなど大きな足跡を残し、死後は興教大師とも呼ばれています。


 誕生院は室町幕府の3代将軍・足利義満の発願によって、覚鑁上人の生誕地に創建されたものです。戦国時代に戦乱で焼け、その後何度か再建が試みられましたが果たせず、大正時代に入り最後の鹿島藩主・鍋島直彬公が再興されたものです。


 新高15回卒で東京鹿城会の前会長である北村信彦さんが、誕生院と覚鑁上人にまつわる歴史と業績をまとめてくださいました。鹿島出身でも意外に知らない郷土の偉人のこと、詳しくは以下の文章をお読みください。




(写真は鹿島市公式観光サイト提供)



興教大師覚鑁上人と鹿島市行成の誕生院

 

新高15回 北村信彦

興教大師覚鑁上人について


 先日(7月11日)開催された東京鹿城会の常任幹事会終了後の雑談で、「誕生院」の由来の話題になり、鹿島にありながら意外と知らない人が多いということで、紹介文を書いて呉れないかということになり、適任とは思えませんが成り行き上紹介させていただきます。

 

 弘法大師空海上人を始祖とする「真言宗」の宗派の一つである「新義真言宗」の開祖である興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいし・かくばんしょうにん)は、1095年6月17日、肥前国藤津荘行成村で生まれています。

 父は、京都の「仁和寺成就院」(寛助大僧正の御領)の荘園であった藤津荘の総追補使・伊佐平次兼元(そうついぶし・いさのへいじかねもと)、母は藤津荘の豪族橘氏の娘「なみ」といいます。ある夜、「なみ」が明星が体内に入る夢を見て孕み、月満ちて男子を出生されたとされています。四人兄弟の三男として誕生し、幼名を弥千歳丸(やちとせまる/みちとせまる)といいました。覚鑁上人の一家は、四人兄弟、母親のすべてが出家しているという稀有の一族です。

 覚鑁上人は、8歳の頃から僧侶になることを志しましたが、9歳の時、すでに出家していた長兄に「この荘の本家成就院の寛助大僧正より偉い上人もいるか?」と尋ねると、兄は「仏である。」と答え、弥千歳丸がさらに「仏にも上下があるのか?」と尋ねると、兄は「大日如来が一番偉い仏である。」と答えました。すると弥千歳丸は「それでは自分も大日如来になりたい。」と言われたとされています。そして、鹿島市の山浦にある「蓮厳院」で修業し、13歳の夏に、荘園の代官として下向してきた「仁和寺」の寛助大僧正の弟子である慶照聖人に伴われて上京し、寛助大僧正のもとで1年の間、真言宗義の教えを受けました。翌年から奈良の「興福寺」に留学し、16歳で一端「仁和寺」に戻り、寛助大僧正に従って出家得度し、名を正覚房覚鑁(しょうがくぼうかくばん)と改められました。

 その後また奈良に戻り、17歳から「東大寺」で本格的な「真言密教」の修行を始め、20歳の秋に「東大寺戒壇院」で、仏門に入るため特定の規律に従うことを誓う「受戒」をして正式な僧侶になり、高野山(注)に登って真言教学の研鑽を続けられました。

 (注) 和歌山県北東部、標高約1,000m級の峰々に囲まれた標高約800mの山上盆地に広がる山地で、高野山真言宗総本山「金剛峯寺」(こんごうぶじ)の所在地

 そして、27歳で師匠の寛助大僧正から「阿闍梨」(あじゃり)という、「密教」を伝授する資格を有する僧侶としての位を授ける儀式である「伝法灌頂」(でんぽうかんじょう)を受けられ、弘法大師空海上人が三鈷を抛って選ばれたとされる聖地である高野山の復興と「真言密教」(注)の復興を目指されました。

 (注)「真言密教」とは、「身」、「口」、「意」を「大日如来」と一体化させる修行を積むことで、悟りの境地が開け「即身成仏」が出来るという教え。

 覚鑁上人が入山された当時の高野山は、度重なる天災によって伽藍は荒廃し、その修復もままならず、弘法大師空海上人の入定後、高弟真然僧正(しんぜん/しんねんそうじょう)が学徒養成を目的として始められた春秋2回の「伝法大会」(でんぽうだいえ・学問研鑽目的の法要)も途絶した状況でした。覚鑁上人はこの状況を嘆き、弘法大師空海上人の遺言であり真言宗僧侶の拠るべき規範とされる「御遺告」(ごゆいごう) を守って、高野山を復興しようとされたのです。

 31歳(1126年)の時には、平為里から私領の石手荘(いわでのしょう・和歌山県岩出市)の土地を寄進され、「神宮寺」を建立されました。また、この「石手荘」は、その後の「伝法院」建立の財政的な基礎となりました。

 35歳(1130年)になると、真言宗の伝法の悉くを会得し、「空海以来の天才」と称されるまでになり、「真言宗」復興の拠点として高野山内に弘法大師空海上人の教えを学び議論する学問所である「伝法院」(「根来寺」(ねごろじ/ねごろでら)の始まりとされる。)と称する堂を建立されました。

 さらに、覚鑁上人を「聖人」と呼ぶまでに帰依していた鳥羽上皇の手厚い保護を受け、37歳(1132年)の年には上皇の院宣を得て、高野山に「大伝法院」と「密厳院」(みつごんいん)を建立し,大伝法院座主に就任されました。さらに、上皇から大伝法院領として、和歌山県弘田荘(岩出市)、山東荘(さんどうしょう・和歌山市)、岡田荘(岩出市)、山崎荘(岩出市)の四荘園と「大伝法院」の末寺として弘田荘内の「豊福寺」(ぶふくじ)を、また、密厳院領として相賀荘(おうがのしょう・橋本市)を拝領されました。

 大伝法院座主就任の2年後の1134年には、弘法大師空海上人が開創された「高野山金剛峯寺」(こうやさんこんごうぶじ)の座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力を持つこととなりました。ところが、「金剛峯寺」の座主は、従来、京都の「東寺」(とうじ・796年、平安遷都時に建立され、823年に嵯峨天皇が弘法大師空海上人に託された寺院)の筆頭長者(管理者・長官)が就任することとされていました。加えて、覚鑁上人は「高野三方」(こうやさんかた)(注)において「聖方」(ひじりかた)であったことや、「大日如来と阿弥陀如来は同体異名で、阿弥陀如来の極楽浄土と大日如来の密厳浄土は、名前は違うが同じである。」と説いたこと等で、保守系の学侶方の多数の僧徒が反発することとなりました。

 (注)平安時代から江戸時代まで存在した高野山の三派の呼び名。

    学侶(がくりょ):学侶方ともいわれ、純粋な「真言密教」の教義、学問、法会などの学業修行に努めた僧衆。貴族の子弟も多くいた。

    行人(ぎょうにん):行人方ともいわれ、修験的傾向が強く、学侶が法会などの行事を行うときに裏方でサポートを行い、諸堂建立や寺領・荘園管理、外敵から高野山を守る僧兵もした僧衆

    聖(ひじり) :聖方ともいわれ、高野山に集まった聖は「高野聖とよばれた。初め高野山の念仏修行者を言ったが、平安中期以降、諸国に勧進を行い、高野山に対する信仰を広めた。

 このような状況が金剛峯寺内の保守勢力との軋轢を生み、翌年の1135年3月には自ら両座主を弟子の真誉に譲って辞任され、「密厳院」において「即身成仏」のための無言行に入られ、1139年4月に修行を結願し、その直後、自らの行いを懺悔すべく「密厳院発露懺悔文」(みつごんいんほつろさんげのもん)を一筆のもとに書き上げられたとされます。同文は、今でも真言宗系各派宗教家の自覚を促し、自戒する経文として広く唱えられていると言うことです。

 一方、この間にも保守勢力との間で「金剛峯寺」や「大伝法院」の座主を取り合うなど主導権争いが繰り広げられ、1140年には、覚鑁上人の自房である「密厳院」を含む覚鑁一門の寺院が保守勢力により焼き討ちされるという事件が発生しました。

 この時、「密厳院不動堂」にいた覚鑁上人の命を狙って暴徒が乱入しましたが、危難を察した覚鑁上人が一心に「不動明王」を念じられますと、「不動明王」と同体になる「入我我入」の境地に達せられ、暴徒の目には覚鑁上人の姿と本尊の不動明王像が同じに映り、まるで二体並んでおられるように見えました。驚いた暴徒は二体の不動明王の膝を射して血が出た方が覚鑁上人であるとして、持っていた錐を二体の「不動明王」の膝に射したところ、二体とも膝から鮮血がほとばしり出ました。暴徒はこれに驚いて退散し、覚鑁上人は一命をとりとめたという「錐もみの乱」伝説が伝えられています。

 こうして、1140年に高野山を追われた覚鑁上人は、700余人の僧侶と共に「大伝法院」の荘園の一つである和歌山県岩出市根来の弘田荘内の「豊福寺」に拠点を移されました。そこで「豊福寺」の境内に新たに伝法会道場として「円明寺」(えんみょうじ)を、住坊として「蜜厳院」を建立され、さらに「豊福寺」、「円明寺」を中心として院家が建てられ、一山総称として「根来寺」が形成されました。ここで覚鑁上人の代表的著作とされる「五輪九字明秘密釈」(ごりんくじみょうひみつしゃく)が著されます。本書は、当時流行していた他力往生の浄土思想に対して、密教の中に浄土教を包摂して融合することを目的として、「真言密教」の本質と、密教の阿弥陀観とを表明し、加えて「五輪曼荼羅」(ごりんまんだら)によって、即身に往生をとげることができることを論証されたもので、「新義真言宗」の教学の基礎を築いたものとされます。

 そして、覚鑁上人は1143年12月12日、49歳にして「円明寺」で座禅の姿をとり、衣の中で秘印を結び、真言を唱えながら短い生涯を閉じられ、「根来寺」奥の院の霊廟に埋葬されました。

 覚鑁上人が生きた平安時代後期は、「末法思想」が流行した時代で、「阿弥陀様にすがって来世で極楽浄土に連れて行ってもらうしかない。」として、浄土信仰が広がっている時代でした。そのような時代背景において、覚鑁上人の教えの本質は、弘法大師空海上人の教えの継承、発展にあり、その目標は「即身成仏」の実現にありました。しかし、それだけではなく、覚鑁上人は当時興隆しつつあった浄土往生思想を「真言密教」の枠組みの中に活かし、「真言密教」の立場からの正しい阿弥陀信仰のあり方を示されました。すなわち、「真言密教」の根本仏である「大日如来」と、浄土信仰の救世主「阿弥陀如来」とは同じものであり、浄土についても、「大日如来」が作った「密厳浄土」(「大日如来」の居られる浄土で、この世の世界そのもの)と、「阿弥陀如来」が作った「西方極楽浄土」(阿弥陀仏が人々を救うためにお建てになった世界)も同処であるとし、真言即念仏の視点から真言の「三密行」による救済を説かれ、「真言密教と浄土信仰の融合を図られたもので、この思想は中世の真言念仏や秘密念仏の原点となったとされます。なお、真言の「三蜜」とは、「身蜜」(しんみつ)、「口蜜」(くみつ)、「意蜜」(いみつ)のことであり、宇宙の生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)の三つの働きで成り立っているとされます。そこで、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)の修行を積み重ねることによって、「大日如来」と一体になると説かれ、それを理想として説きながら、そのうちの何か一つを熱心に学び念ずれば成仏への道が開けるという「一密成仏」をも説かれました。

 

 1143年の覚鑁上人の入滅後も100年以上にわたって「大伝法院」は高野山に存続しましたが、145年後の1288年、「大伝法院」の学頭であった頼瑜僧正(らいゆそうじょう)は、高野山の「大伝法院」や「密厳院」を高野山から移築し、「大伝法院」の活動を根来山に戻され、ここに新義真言宗「根来寺」という寺院が本格的に成立しました。頼瑜僧正はこの地で覚鑁上人の教義を発展させ、根来中興の祖と称されています。その後、頼瑜僧正の学風は聖憲(しょうけん)尊師に受け継がれ、それまでの高野山や「東寺」を中心とする教義と一線を画した「新義」を打ち立てて「新義真言宗」が確立されました。

 覚鑁上人以前の「古義真言宗」は「本地身説法」(ほんじしんせっぽう・真言宗最高仏である「大日如来が自ら説法するとする説)を説くのに対して、「新義真言宗」では、頼瑜僧正が初めて唱えた加持身説法」(かじしんせっぽう・大日如来が説法のためその加持力(霊的エネルギー)によって、修行者の身体を通して教えを説くとする説)を説くことが教義上の違いであるとされます。

 室町時代末期になると、「根来寺」は寺領が72万石になるなど最盛期を迎え、根来を中心に一大宗教都市を形成しました。また、この頃より1万人規模の僧兵からなる「根来衆」と呼ばれる火縄銃を装備した軍事集団を要するようになりました。

 「根来衆」は、1570年の浄土宗本願寺勢力と織田信長の戦いである「石山合戦」や1577年の「石山本願寺」を軍事的に支援していた「雑賀衆」(さいかしゅう)の撲滅を図った「雑賀攻め」では織田信長に味方して活躍しました。また、織田信長の死後1583年に起こった羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄が戦った「小牧・長久手の戦い」では徳川方に味方したことから、1585年には羽柴秀吉による「紀州攻め」を受け、大師堂や大塔など数棟を残しほとんどが焼け落ち、寺宝はおろか、かつて「教学の山・根来」とまで称された多くの新義文献も灰燼に帰し、「新義真言宗」は事実上壊滅状態となってしまいました。

 この混乱の中、一部の僧侶は奈良の「長谷寺」や高野山に逃れました。京都の「醍醐寺」に身を寄せていた専誉(せんよ)僧正は、1588年、豊臣秀長によって「長谷寺」に招かれ、「真言宗豊山派」を起こしました。また、高野山で焼き討ちされた「智積院根来寺」の住職であった玄宥(げんゆう)は、高野山に逃れた後、真言宗系の京都の「高雄山神護寺」や「醍醐寺三宝院」などを転々としましたが、1601年に徳川家康から京都市東山区にある豊臣秀吉ゆかりの「豊国社」の参道に位置する豊国社付属寺院の土地建物を与えられ、同地において「智積院根来寺」を再興させました。なお、同寺が後の「真言宗智山派」の総本山となります。豊臣秀吉の宗教政策は、結果として「総本山根来寺」を「智山派」と「豊山派」に二分して勢力を分散させ、宗教都市根来を衰退させることとなりました。

 一方、「総本山根来寺」は1600年に徳川家康により再興の許可を受け、江戸時代に入ると紀州徳川家の藩祖徳川頼宣の庇護を得て主要な伽藍を再興し、「新義真言宗」が再興されることとなりました。さらに、1690年には東山天皇より覚鑁上人に対して「興教大師」の大師号が与えられました。

 (注)・新義真言宗

     総本山 :和歌山県岩出市根来・一乗山大伝法院根来寺

     大本山 :佐賀県鹿島市大字納富分・密厳山誕生院

   ・真言宗豊山派

     総本山:奈良県桜井市初瀬・豊山神楽院長谷寺

     大本山:東京都文京区大塚・神齢山悉地院護国寺 大隈重信の墓所がある。

   ・真言宗智山派

     総本山:京都市東山区東山七条・五百佛山(いおぶさん)智積院根来寺

     大本山:千葉県成田山成田・成田山新勝寺

         川崎市川崎区大師町・金剛山金乗院平間寺(へいけんじ) 通称・川崎大師

         東京都八王子市高尾町・高尾山薬王院有喜寺


誕生寺について


 行成の「誕生院」(「蜜厳山誕生院」・みつごんざんたんじょういん)は、覚鑁上人の生誕地ということで、足利三代将軍義満の発願により、1405年に沙門定成上人によって「根来山大伝法院」(当時の新義真言宗大本山)の末寺として創建されましたが、戦国時代の1558年、大友宗麟の兵火よって廃滅しました。

 その後1690年に第四代鹿島藩主鍋島直條公が再興を試みられましたが、幕府や本藩の圧迫で果たせず、何回か復興が試みられましたが成就せず、「誕生院」の地名と「覚鑁屋敷」の名が残るだけの状況でした。

 大正に入り、最後の鹿島藩主第十三代鍋島直彬公が「一宗の開祖と仰がれ全国にその尊影を奉祀される覚鑁上人は、我鹿島の立身であり、九州立身宗教家として唯一人の大師号保持者である。この上もなき郷土の誇りである。誕生の遺跡を顕彰せねば」(誕生院パンフレット)との思いで、1913年に再建され、もともと高野山にお祀りしてあり、その後「根来寺」に移された「錐鑽身代不動明王」(きりもみみがわりふどうみょうおう)の御尊霊を御本尊としてお迎えし、弘法大師、興教大師の尊像を安置して復興しました。その後、金堂、鐘樓堂、書院、庫裡を竣工し、「新義真言宗大本山 密厳山誕生院」として現在に至っています。

 (注)その他高僧の誕生院(寺)

   ・空海上人 弘法大師 真言宗開祖

         香川県善通寺市 屏風浦五岳山(びょうぶがうらごがくさん)誕生院

   ・法然上人 圓光大師の他、1711年以降50年毎に天皇より加諡され8つの大師号を持つ

         浄土宗開祖

          岡山県久米郡久米南町 栃社山(とちこそざん)浄土院

   ・親鸞上人 見真大師(けんしんだいし) 浄土真宗宗祖

         京都市伏見区日野西大道町  日野誕生院

   ・日蓮上人 立正大師 日蓮宗(法華宗)開祖

         千葉県鴨川市小湊 小湊山誕生寺



上記の内容をpdfファイルにしています。



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